尾道から北名古屋に戻ってきて、またあたらしい日常がはじまっている。
最近は雪が降って、耳がキーンとするくらいに寒い日がつづいていたけれど、
今日は久しぶりに温かい日差しを感じられた。
相変わらず、雪だるまのような着ぶくれ姿で田んぼ道を歩く。
今日は空というか、雲の存在感がとても強かった。
もくもくと大きく分厚い高積雲が広がっていて、思わず見入ってしまう。
じっと見つめていると、雲の動きがわかるようになる。
いそがしく暮らしているときはあまり気づかないけれど、ふと立ち止まって
少しずつかたちを変えて流れていく雲を見ていると、風向きや、上空の風の強さが伝わってくる。
長野で空に魅了されてから、寝転がって空を見るのが好きになった。
流れていく雲を見ていると、大地が動いているのか、雲が動いているのかよくわからなくなって
空に吸い込まれていくような錯覚をする。
学生の頃は、夜な夜な畑の脇に停めてある軽トラの荷台によじ登り、寝転がって星を見ていた。
友達が泊まりに来たときは、静かな田んぼ道に案内して、道路のまんなかに2人で寝転がっていた。
空を眺めていると、人間のせかせかした時間軸から
自然のゆったりとした時間軸に戻れるような気がして、気持ちが落ちつく。
今日はあまりにも迫力のある空だったので、ゆっくり観察したくなって
地元にある「文化の森 物語の広場」という場所まで歩いていった。
ここは早朝に近所のひとたちが集まってきて、ラジオ体操をする会場にもなっている。
帰国して愛知に戻ってきた年の春、朝焼けが見たくてこの広場へ来た。
そこには、メキシコやエジプトにあるような遺跡の形をした建造物がある。
階段で上まで登ることができ、頂上からは大きな広場を見渡せる。
背後には木々が生い茂っていて、夜明け前に鳥たちが羽を休めていた。
持参したブランケットを地面に敷いて、横になって目を閉じた。
少しずつ空が明るくなってくる。
朝焼けの空に浮かぶ雲は、いつもより優しく光っているように見えた。
ずっと眺めていると雲はどんどん増えていき、しばらく経つと、空いっぱいに広がった。
そのまま目を閉じて横になっていると、
ふいに「うわ、びっくりした!」という男性の声。
目を開けると、すぐ横にご年配のご夫婦がいた。
朝のさんぽで階段を登ってきたふたりが、驚いた様子でこちらを見ていた。
挨拶をしてからそのまま起き上がって本を読んでいたけれど、
少しずつ人が集まってきて賑やかになってきたので、こっそり退散した。
昼間は犬のさんぽをするひとがちらほらいたり、夕方は子どもたちがボール遊びをしていたりして
のどかな光景が広がっている。昔からお気に入りの場所。
上まで登って空を眺めるのは、今年に入ってから初めてだ。
階段に座って目を閉じると、鳥たちの声や木々が揺れる音が聞こえてくる。風がそっと頬に触れた。
目には見えないけれど、
風は木の葉を揺らしたり水面に模様をつくったり、草原に足あとを残したりする。
わたしはその光景を見ているのが好きだ。
気持ちいい風が吹くと、ときどき、昔読んだ池澤夏樹さんの「きみが住む星」という本を思い出す。
ーーー
考えてみて。
きみ一人を地面の上に立たせて、足を地面がしっかり支え、風が髪の毛の間を吹きぬけ、
明るい日差しがきみの顔を照らすために、いったいどれだけの時間と偶然が必要だったか。
地球がもう少し冷たくても、あとわずか乾いていても、紫外線がもうちょっと強くても、
きみはいなかった。
何かが少し変わっただけで、きみが見上げる白樺の葉は茂っていなかっただろうし、
きみが食べるオレンジも実をつけなかった。
雪が降る光景をきみは見ることはなく、ぼくがきみの髪に触れることもなかった。大好きなその髪。
かぎりなくたくさんの条件をひとつ残らずクリアして、そしてきみがこの星に住むことになった。
ーーー
昨年の8月ごろ、悩んで悩んで、ライターの請負をやめる決断をした。
そうしたら、お金の代わりに自由な時間がたくさんできた。
おさんぽをして、花を摘んで、ウクレレを弾いて、本を読んで。
不安に飲まれそうになるときは、考えるのをやめて、ただ好きなことに集中していた。
時間があると、お裁縫やヨーグルト作りなど
今までやろうとしてこなかったことにも興味を持つようになるんだと知った。
いくつになっても、まだ知らない自分が出てくるのだなあと思う。
ひとしきり空を眺めてから、郵便局へ行って用事をすませて、幼い頃に住んでいた地域を歩いた。
家の裏にあるちいさな公園や、パン屋さん、家のそばにあった金柑の木も、まだそこにあった。
今は、昨年の夏頃とはまた少しちがうリズムを刻んでいる。
日々やることはたくさんあるけれど、一瞬でもどこかで立ち止まれたらいい。
たまにはこんなふうに立ち止まって、当たり前の中にある幸せを大切にしたいと思う。