Stories

味覚

10日ほども「食っちゃ寝生活」を繰り返しているから、だんだん顔が丸くなってきた。

外に出たのは、数日前に薬がなくなって、再検査を受けるために病院へ行ったのが最後だ。

朝になって、服を着替えて洗濯をして、朝ごはんを食べて寝て、また起きて昼ごはんを食べて
本を読んで寝る。
起きたらもう夕方になっている。

わたしの部屋からは夕日がよく見える。
窓辺でカーテンの隙間から夕焼けを見て、暗くなったらカーテンをしめて電気をつける。

日常がなんなのか、よくわからなくなる。
以前だったらこんなふうに寝て一日を過ごしたら、もったいない、と思っていただろう。
だけど、そんな日が何日も何日も続いている。
食べて寝て、の繰り返しで、あっという間に時間は過ぎていく。

「こんなふうでも、生きていられるんだなあ」と、逆に新鮮な気持ちになってくる。
大人になってこんなにぜいたくに時間を使えることって、なかなかないから。

今はかなり体調が楽になってきたけれど、少し前までは、夜になると心細かった。
熱が上がって布団の中で汗をかいていると、「わたしはこのまま死んでしまうんじゃないか」と思ってしまう。
インドで一人旅をしていたときも、風邪で寝込んで同じように思うことがあった。

わたしは幼い頃、熱が下がりにくい体質で、8歳のときに救急車で運ばれたことがある。
夜中にトイレで熱性けいれんを起こし、白目をむいて泡をふいて倒れていたらしい。

そのとき、一瞬だけ意識が戻って
ぼんやりとしたオレンジ色の寝室の光が見えた。
やけに心地がいい。体の痛みはなく、暑くも寒くもなかった。

お母さんが「救急車って何番だっけ?!」と慌てていて、
お父さんの「119番だろ!」というやりとりが遠くで聞こえた。

わたしは心の中で「お母さん、慌てちゃってしょうがないなあ」と思っていた。
それからまた眠くなって、次に意識が戻ったときは、病院のベッドの上にいた。

あとから聞くと、41度ほども熱が上がっていたらしい。
容態が安定してから、名前を聞かれたり簡単な検査を受けたりしたようだけど、そのことは全く記憶にない。

それからしばらくは、38.5度以上の熱が出ると坐薬を入れられていた。

その経験のせいなのか、ひとりのときに熱が出ると不安になってしまう。
最近になって、ようやく安心して眠れるようになってきた。

けれど、熱が下がったと思ったら、今度は味覚がなくなってしまった。

実家から救援物資で玄米やポトフ、手作りジャムなどを届けてもらえるのだけど
残念なことに、「これはたぶん美味しいんだろうな」という感想しか持てない。

味噌汁を食べてもみかんを食べても、味がない。そのぶんだけ、やたらと食感がよくわかる。
なめらかなお豆腐、カリカリのお漬物。
梅干しのようなすっぱいものや味の濃いものを食べると、体だけが反応して
舌がピリピリしたり、喉が渇いて水を飲みたくなったりする。

プリンを食べると、「美味しいであろうもの」を食べている感覚だけはある。
せっかく差し入れしてもらったから、美味しいものはとっておこうと思うのだけど
一体いつ味覚が戻るのかもわからない。とにかく、味の記憶を頼りにして食べている。

こういう状態のときに「食べたい」と思えるものは、スープやみかんなど、喉ごしのいいものだとわかった。

お蕎麦を茹でているときに、「めんつゆは薄くてもいいか」と思った。
どうせ、味がわからないのだから。

だけどそう思うと同時に、なんだかものすごくさみしくなった。
何も感じないからどんな味でもいいのだけれど、
苦いともまずいとも思わないこの状態が、とてもさみしい。

寝込んでいるときに、なぜか高畑勲さんのお別れ会で
宮﨑駿さんが捧げたメッセージを思い出していた。

「55年前に、あの雨上がりのバス停で声をかけてくれたパクさんのことを忘れない」

ネットでその文章を読み直して、泣いた。
それから、高畑勲さんの遺作になった「かぐや姫の物語」の予告編を観ていた。

かぐや姫は地球に生まれて、里山で楽しい子ども時代を過ごし、
大人になってからは制約のある都の暮らしで屈辱や息苦しさも味わう。
苦しくて苦しくて、「ここにいたくない」と強く念じてしまったがゆえに、
一緒に暮らしていたおじいさんやおばあさんからも離れることになってしまう。

映画館で観たときは
かぐや姫が着物を脱ぎ捨てながら全力疾走するシーンがとにかく強烈だったのだけど、
彼女が地球を去るシーンも印象深かった。

お迎えが来たときの底抜けに明るい音楽と、かぐや姫の無表情っぷりが残酷なほど人間離れしていて
悩みも苦しみもないけれど、そのかわり喜びもない空虚感をよくあらわしていると思う。

人間として生きているかぎり、悩みや苦しみから逃れることはできない。
だけど、だからこそ人のやさしさや温もり、喜びや感動を味わうことができる。
そういう感情をすべて味わうために、わたしたちは生まれてきたんだなあと思う。

出来事を自分のなかでどう受け止め、どんな答えを出すか。
結局はいつも、自分と対話するしかない。

のどの奥にフィルターが1枚はさまったような、味覚が遠くにいってしまったような感覚。
それは、ふだん当たり前に思うことが、どれほど大切なことだったかを気づかせてくれる。

それがよくわかったから、もうそろそろ療養期間を終わりにしたい。

ようやく昨日、みかんの味がうっすらとわかるようになった。
少しずつだけど、他の食べものの味もわかるようになってきた。

匂いがすること、味がわかること、それだけでこんなにも幸せなんだなあ。

お正月はお餅を焼いて、小豆を炊いておしるこを作ろう。

それが直近のわたしの生きる楽しみ。

外を歩けるようになるために、少しずつリハビリをしなければ。